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明るい夜間戦闘

第二次世界大戦のヨーロッパ上空で繰り広げられたドイツとイギリス、アメリカの知られざる夜間戦闘の歴史や航空機、技術の紹介しています。

遠距離夜間戦闘の中止

1941年10月11日、長距離夜間戦闘隊のエースであるハンス・ハーン少尉はイギリス本土上空で英軍機と空中衝突し、翌12日に飛行隊へハーン少尉の戦死が報じられました。そして同日1940年10月12日、カムフーバー少将は第2夜間航空団第I飛行隊(I./NJG 2)へ「遠距離夜間戦闘」の中止と連絡をしました。
国民の前で戦果を見せることができない「遠距離夜間戦闘」は士気に効果がないとヒトラーの判断でした。イギリス空軍はのちに、「遠距離夜間戦闘」の中止によって基地がドイツ空軍に脅かされなくなり、終戦まで有利に爆撃作戦を行えたと、発表しています。

確かに、敵の巣を叩く「遠距離夜間戦闘」はイギリス空軍に脅威をあたえており、中止を命じられたカムフーバーの落胆は少なからずありました。だが反面、戦果と損失の面からこの作戦を見ると、効率が良いとは言えないもの事実でした。1940年9月から1941年10月までに第2夜間航空団第I飛行隊(I./NJG 2)があげた撃墜数は143機。対して作戦中の損失は54機でした。搭乗員の戦死、行方不明、捕虜などを合わせると106名を失っていました。

多数の損失が出た要因は、北海の往復と、敵地上空での戦闘でした。自国占領下の上空であれば、作戦時間も短く、被弾してもすぐ着陸できましたが、「遠距離夜間戦闘」の場合は、基地までの長時間飛行に耐えることができなければ、海没するしかありません。とりわけ冬の北海は、数分を待たずに脱出した搭乗員を凍死させてしまうほどでした。54機の損失以外に、海を越えて大陸沿岸部に不時着し、大破した機も少なくありませんでした。

いずれにせよ夜間航空団は積極防空たる「攻撃」の手段を失い、残る夜間戦闘機の用法は本来の「防御」のみになりました。カムフーバーは、のちの「遠距離夜間戦闘」の中止を「ドイツ空軍最大のミス」と記述するほどでした。
※ここまでのドイツ空軍の目立ったミスといえば、ダイナモ作戦時の攻撃やバトル・オブ・ブリテン時のロンドン攻撃が上げられます。

第2夜間航空団第I飛行隊(I./NJG 2)は「遠距離夜間戦闘」中止にともない1941年11月15日からシチリア島カタニアで作戦を開始しました。この方面には1941年2月から10月まで、第3夜間航空団第1中隊(1./NJG 3)が派遣されていましたが(※)、守備範囲の広い地中海方面においては、Bf 110ですら航続力不足で、Ju 88Cが必要とされていたからでした。

※1941年2月から5月はシチリアアルゴス第X航空軍団麾下)、5月から8月はベンガジ(リビア)(Fl. Fü. Afrika麾下)、8月から10月はDerna(Fl. Fü. Afrika麾下)

地中海ではマルタ島への夜間攻撃、ロンメル軍団支援用の船舶護衛などのほか、北アフリカへも進出し、昼夜を分かたず、イギリス空軍の「ウェリントン」「ブレニム」「ボーファイター」と戦闘を続けました。1941年12月中旬の初撃墜以後、翌1942年9月中旬までの9ヶ月間に41機を撃墜しました。それらの中にはマルタ島救援のイギリス船団を襲ったJu 88を援護したペーター・ラウフス少尉が、邀撃する「ハリケーン」を昼間撃墜した稀な例もありました。

この方面での撃墜トップは、第2中隊(2./NJG 2)のハインツ・レッカー少尉(最終撃墜数64機)の6機、パウル・ゼムラウ大尉の5機、ヘルマン・ゾマー曹長アルフォンス・ケスター少尉の4機でした。
その後、第2夜間航空団第I飛行隊(I./NJG 2)はベルギーに戻り、すぐに再びシチリアへ進出しましたが、まとまった戦果をあげることもなく1943年夏にドイツに戻ることになるのでした。

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メタデータ:

投稿者:IMAGEDRIVE
公開日時:2009年3月22日 18:44 更新日時:2010年3月13日 20:58
URL:http://www.nachtjagd.org/history/1941/1941_03.shtml

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