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明るい夜間戦闘

第二次世界大戦のヨーロッパ上空で繰り広げられたドイツとイギリス、アメリカの知られざる夜間戦闘の歴史や航空機、技術の紹介しています。

20世紀のゴモラの街

1943年7月24日夜、イギリス空軍とアメリカ陸軍第8航空軍によるハンブルクへ対しての集中爆撃、ゴモラ作戦の第1回目が発動されました。
イギリス空軍が出撃させたのは791機で、「ランカスター」を主体に90%以上を4発爆撃機が占めていました。故障などで戻った45機を除く爆撃兵団は長さ320km、幅30kmのボマーストリームとなってハンブルクに押し寄せました。

ウィンドウを撒くランカスターウィンドウ」の散布は海岸線の手前から始まり、爆撃を終えた北海上空に達するまで続きました。各機から1分間隔で、数千枚を一束にして「ウィンドウ」を散布。これらは拡散するまでの15分間、1機の爆撃機としてレーダースコープに映りました。
この夜に撒かれた「ウィンドウ」は合計40t、9,200万枚、実に11,000機の巨大編隊に相当しました。

ウィンドウ」の目つぶしに隠れて、イギリス空軍は光学標準器とH2Sを使って爆撃を正確に市の中央部に定め、50分間および合計2,284tの爆弾を投下しました。
爆撃機の半数がハンブルグ中心部から3マイル以内に爆弾を投下しましたが、さらに6マイルに渡るクリープバックが伴いました。中心部から北西地区にかけて特にアルトナ地区、アイムスビュッテル地区、ホーエルフト地区が甚大な被害を受け、攻撃の為の目印にされたものの中で有名なものにハンブルク市庁舎、聖ニコラス教会、警察署、電話交換所、ハーゲンベック動物園がありました。

ゴモラ作戦後のハンブルクハングルクは54ヶ所の高射砲陣地、22ヶ所のサーチライト基地、20基の「ヒンメルベット」と6ヶ所の夜間戦闘基地に囲まれ、3基の煙幕展張装置を備えていましたが、抵抗する予知もなく1,500名の人命をともに炎に包まれました。
被害者が一番多かったのは集中爆撃の支援をする「オーボエ」の探査範囲外でした。

ウィンドウ」のおかげでイギリス空軍の損失はたったの12機、出撃機に対して1.5%の少なさで第1回目のゴモラ作戦は予想以上の成功を収めました。
1940年以来、北はユトランド半島北端から南はミュンヘンまでドイツの主要都市や重要地域をもれなく包み、ドイツ本国全体に張り巡らされていたカムフーバー・ラインと機上搭載レーダーは「ウィンドウ」によってまったくの無力と化していました。

ハンブルクの惨状を見たヒトラーは激怒すると「イギリスへの報復爆撃」と怒号し、防御の意識は薄れていました。しかしドイツ空軍に敵の戦力を上回るだけの爆撃機群を、英国本土へ送り出すだけの戦力はあろうはずもなく、ハンブルクに対するヒトラーの処置は、ロケット報復兵器の大量生産許可の書類にサインをしたことでした。
しかしロケット報復兵器V-1もV-2も実戦投入はまだまだ先のことで、当面の敵を防がなくてはなりませんでした。

レーダーが期待できないのであれば代替の手段で戦うしかありません。ハンブルク爆撃直後の1943年7月25日の朝、第300戦闘航空団JG 300)司令部にいたハヨ・ヘルマン少佐は、ゲーリングからの電話を受けるのでした。

クリープバックは光学式爆撃標準器を使用する爆撃機が爆撃目標に到達する前に兵器を段階的に投下した結果、航路後方に爆撃が集中することである。これは第二次世界大戦中のイギリス空軍爆撃軍団の夜間空爆で特に顕著な現象だった。

第二次世界大戦時、爆撃機が一番危険に晒される時間は目標へ到達するまでの爆撃航程であった。爆撃機のパイロットは敵の高射砲の激しい対空砲火にさらされ、サーチライト、夜間戦闘機を含む対空兵器に捕捉されても機体の水平を保ち一直線に飛ばなければならなかった。そのため乗組員達は「尻込み」し、目標指標照明弾が標準点を示すわずか前に爆弾を投下してしまいたいという強い衝動に駆られた。短時間で爆弾の投下を終えて帰還したがる後続機の乗組員は低空爆撃であがった炎を投下目標点に用いる傾向があり「爆撃は必然的に爆撃航程の線に沿ってクリープバックした。」

問題は最初のマークが煙と炎で消えたり隠れたりすることで再び目標にマークし直す必要が生じた事により更に悪化した。目標指標機もまたクリープバックの影響を受けやすく、これが続く第二波の爆撃機のクリープバックを加速させた。

イギリス空軍はクリープバック問題に対する効果的な対策を見つけることが出来ず、結局それを爆撃計画に取り込むことにした。爆撃機が接近するに従って最初の標準点を目標の向こう側に設定し「クリープバック」の爆撃パターンが目標と重なるようにしたが、通常その対象になるのは都市の工業地域か住宅地域だった。イギリスの爆撃戦術では爆撃機がそれぞれ設定された高さとコースを飛行し単独で爆撃したが、それとは対象的にアメリカ軍の爆撃機は大規模かつ密集した編隊を組み、先頭の爆撃機が爆撃を開始すると同時に全機が爆弾を投下したため、アメリカが行なった昼間爆撃ではクリープバックはあまり顕著ではなかったようである。

参考資料

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メタデータ:

投稿者:IMAGEDRIVE
公開日時:2009年7月 5日 23:26 更新日時:2009年7月 8日 20:35
URL:http://www.nachtjagd.org/history/1943/1943_12.shtml

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