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明るい夜間戦闘

第二次世界大戦のヨーロッパ上空で繰り広げられたドイツとイギリス、アメリカの知られざる夜間戦闘の歴史や航空機、技術の紹介しています。

ヒドラ作戦(ハイドラ作戦)

V2ロケットイギリス空軍はペーネミュンデで開発中のV-1、V-2ミサイルの存在を知ると、1943年8月17日から18日に夜にかけて、研究所および実験場に対してヒドラ作戦(ハイドラ作戦)を実施しました。
ヒドラ作戦(ハイドラ作戦)は7個航空群44個中隊596機(597機説もあり)を持って行われ、かつ夜間航空団の立ち直りを知ったイギリス空軍は牽制作戦をとり、8機のモスキートをベルリンへ向かわせ、「ウィンドウ」と照明弾をばらまきました。
敵機来襲の予報を受けて各ビーコン上空にいたのは、「ツァーメ・ザウ」戦法をとる夜間航空団(NJG)の158機と、ヘルマン少佐の第300戦闘航空団JG 300)の55機でした。
しかし中部空軍・第4戦闘師団JD 4)からの急報で、ベルリン上空に駆けつけましたが敵機は見えず、夜間戦闘機隊を迎えたのは、味方の高射砲だけでした。

彼らが欺瞞作戦にのせられたと分かったとき、長蛇のように延々と続く重爆撃機群は、ベルリン北方160kmのペーネミュンデ上空に差しかかっていました。
航続距離の短い単発夜間戦闘機やフランス東部の第3戦闘師団管区から飛んできた第4夜間航空団第II飛行隊(II./NJG 4)のBf 110は、燃料補給の為いったんベルリン近郊に降り、残る各機は全速でペーネミュンデに向かいました。

1943年8月18日へと日が変わる頃、ペーネミュンデへ急いでいた第1夜間航空団第IV飛行隊(IV./NJG 1)のBf 110の5機は、フリジア諸島の方向に多数の爆音を聞きました。イギリス空軍爆撃機編隊と直感した搭乗員たちは、「リヒテンシュタイン」を稼働させると追尾にかかりました。
しかし退避行動を取るはずの敵編隊は機首をこちらへ向けて迫ってき、Bf 110のうち1機がすぐ炎に包まれ、続いてもう1機が被弾しました。

ジョン・R・D・ブラハム中佐爆撃機と思ったのはイギリス空軍のブリストル ボーファイター夜間戦闘機で、彼らはFuG 202 リヒテンシュタイン B/CおよびC-1のレーダー波を捕らえる電波探知装置「セレイト」を装備していました。
この「ボーファイター」編隊を率いていたのは、英第141飛行隊長ジョン・R・D・ブラハム中佐(撃墜数29機、うち19機が夜間撃墜。イギリス第2位の夜戦エース)で、ブラハム中佐によりBf 110が2機落とされ、彼の僚機よりさらに1機が撃墜されてしまいました。

一方、遅れてペーネミュンデに到達した夜間戦闘機達は、みごとな月明かりの中で爆撃進路に入る最後の2個梯団を補足し、第1夜間航空団第II飛行隊(II./NJG 1)の指揮官ヴァルター・エーレ少佐に率いられたBf 110G-4群が戦闘に突入しました。

8月18日1時35分、第1夜間航空団第4中隊(4./NJG 1)中隊長のヴァルター・バルテ中尉が「ランカスター」を撃墜し最初の勝鬨をあげました。
ついで、燃えるペーネミュンデの炎に浮き出た爆撃機2機を、エーレ少佐が3分間で撃墜。バルテ中尉も続けて2機目を撃墜しました。1時45分に1機目を落としたディーター・ミュッセ少佐は、続く14分間に3機を戦果に加えました。
第5夜間航空団第5中隊(5./NJG 5)のパウル・ヘルカー一等飛行兵は斜め銃を使い爆撃機2機を撃墜すると、第5夜間航空団第6中隊(6./NJG 5)のペーター・エルハルト少尉も斜め銃を使い、30分間で4機を撃墜しました。

ドイツ夜間戦闘機は帰還する爆撃機を追いかけました。北部ドイツ、デンマークの基地に残っていた夜間航空団NJG)もこれに加わり、第3夜間航空団第II飛行隊(II./NJG 3)のハンス・マイスナー中尉は送り狼になって、8月18日2時51分から3時11分までの20分たらずの間に「リヒテンシュタイン」で補足した3機を撃墜しました。

ヒドラ作戦(ハイドラ作戦)でイギリス空軍は41機を失い、出撃機数に対して6.7%の損害を被りました。対するドイツ側の損害はイギリス空軍の夜間戦闘機に落とされた3機を含めて12機でしたが、ペーネミュンデは重要施設が破壊され、V兵器の開発に携わっていた職員735名が犠牲になりました。
この犠牲者の中にはロケットエンジンの専門家ヴァルター・ティエルや製造部門の主任技術者エーリッヒ・ヴァルターが含まれ、ドイツのV兵器開発に大きな影響を与えました。
その後、ドイツ軍は理論開発施設をガルミッシュ=パルテンキルヒェン、実用技術開発はノルトハウゼンとブリーヒェローデ、風洞と補助施設はコッヒェルへと研究施設を分散させ、実戦配備に備えてドーラ=ミッテンバウに地下工場を用意し、発射基地を整備していきました。

ツァーメ・ザウ」「ヴィルデ・ザウ」戦法は、地上司令部による敵目標の判断が正否の大きな比重を占め、欺瞞行動には弱い点はありました。
しかし、その判断が的中すれば、これまでの数倍の戦力を集中でき「暗い夜間戦闘」方式に比べ、強力な邀撃戦の展開が可能でした。

そしてそれはすぐに実証されることになりました。

1943年8月23日の夜、727機のイギリス空軍重爆撃機がベルリンを目指して出撃しました。この日は敵機進入の1時間前から、シュターデ第2戦闘師団JD 2)、デーベリッツ第4戦闘師団JD 4)が敵目標を把握しており、24日にかけての戦闘でイギリス空軍はまず56機を損失しました。第XII航空軍団(XII. Fliegerkorps)はこの戦果を48機と発表しており、ドイツ空軍の撃墜認定の厳しさを物語っていました。

ベルリンへの夜間空襲は1943年9月1日から4日にかけての夜にも行われており、イギリス空軍による3回のベルリン爆撃による合計損失は125機、全出撃機数の7.5%にものぼり、「ウィンドウ」が一時的な効果しかなかったことが判明しました。
さらに9月1日の邀撃戦ではドイツ空軍が爆撃機をベルリン上空に飛ばし、照明弾を投下して敵爆撃機を浮き上がらせ、視認協力をする新戦法を用いました。
3回のベルリン邀撃戦を含み、夜間迎撃で得た1943年8月の戦果は合計250機になり月間の新記録になりました。このうち「暗い夜間戦闘」によるものが48機にすぎず、残りはすべて「ツァーメ・ザウ」「ヴィルデ・ザウ」戦法によるものでした。
これがきっかけになったように、1943年9月からドイツ空軍は新兵器を次々に装備し始め、夜間迎撃の威力を回復していくのでした。

イギリス空軍第141飛行隊

第141飛行隊(Caedimus noctu) 第141飛行隊(No. 141 Squadron)は1918年1月1日にロックフォード基地でロンドン防衛のために編成されました。
飛行隊は2月にビギン・ヒル基地へ移動し、3月中にはブリストル F.2による編成は諦められました。1919年に3月にアイルランドへ移動し、翌年1920年2月1日に解隊しました。

第141飛行隊(No. 141 Squadron)は1939年10月4日にターンハウス基地で再編成され、初期の装備はグロスターグラディエーター」とブリストルブレニム」でした。1940年4月にはボールトンポールデファイアント」へ機種転換しました。

再編成語の最初の活動は7月のウェスト・マリング基地移動前の6月29日に行われましたが、敵機との接触はなく数日後に飛行隊の役割は夜間戦闘に切り替わりました。
この任務変更をきっかけに、飛行隊のモットーは「Caedimus noctu(We slay by night)」となりました。

バトル・オブ・ブリテン中はターンハウス基地、ウェスト・マリング基地、プレストウィック基地ダイス基地 モントローズ基地ビギン・ヒル基地ガトウィック基地ドレム基地を中心に活動し、後に「セレイト」を用いてノーフォークウェスト・レインハム基地からヨーロッパ占領地への長距離進入を行いました。

参考資料

カテゴリ:

メタデータ:

投稿者:IMAGEDRIVE
公開日時:2009年8月 8日 21:22 更新日時:2009年8月 8日 21:33
URL:http://www.nachtjagd.org/history/1943/1943_17.shtml

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