1. メニューへ移動
  2. 本文へ移動

明るい夜間戦闘

第二次世界大戦のヨーロッパ上空で繰り広げられたドイツとイギリス、アメリカの知られざる夜間戦闘の歴史や航空機、技術の紹介しています。

増加する機材と欠乏する燃料

1944年6月、アメリカ陸軍航空軍(USAAF)は燃料施設を攻撃の第1目標に定め、大規模な集中爆撃を開始しました。
イタリアから出撃する第15航空軍はオーストリア、ハンガリー、ルーマニア、南部ドイツの、イギリス本土から発進する第8航空軍は中部および東部ドイツの各石油精製施設を攻撃しました。またイギリス爆撃機兵団も、それまで臨時に行っていた地上支援を大陸に進出した戦術航空部隊に譲り、ルール地方の合成石油工場群の攻撃に参加し始めました。

このため、ドイツの航空機用燃料の生産量は急激に減っていきました。1944年4月に17万5千トン(175,000t)だった燃料の月産生産量は、6月には3分の1以下の5千5トン(5,500t)、7月には3万5千トン(35,000t)になり、9月には7千トン(7,000t)へと落ち込みました。それにともない、50万トン(500,000t)以上あった備蓄燃料はどんどんすり減り、9月までに半減してしまいました。
合成燃料については、技術陣の強化、労働者の増員、徹底した隠蔽と防御の強化によって秋には生産量は増したものの、焼け石に水の感はまぬがれませんでした。
前線ですら燃料が不足するような状況では訓練用にまわせるはずもなく、あいつぐ搭乗員の損失を補うために短期大量養成に入っていた新人搭乗員たちの卒業時の技術水準は飛行時間の大幅な短縮により、低下の一途をたどりました。
このような状況では、昼間よりも高い技量を必要とする夜間搭乗員などは育てようはありませんでした。こうして夜間航空団の戦力劣化が歴然とし始めました。補充人員の数と質の両方の不足から、ベテラン搭乗員たちは戦力を維持する為に無理な出撃をかさね、着陸事故などでの死亡も増えていきました。

イギリス空軍第第100集団による通信妨害やデハビランド モスキートによる基地掃射をくぐり抜けて、ドイツ夜間戦闘隊は1944年7月に258機、8月に164機と撃墜戦果をあげていました。
9月に入ると燃料事情は逼迫し、そのうえ8月27日からは夜間爆撃専門だったイギリス空軍爆撃機兵団までもが昼間爆撃に参加し、迎撃のために昼間戦闘機に少しでも燃料を回さなければならず、夜間戦闘隊への供給はさらに少なくなりました。
夜間邀撃に50機程度を上げられるといった状態では十分な戦果を収めるのは無理な話で、撃墜数は1944年9月に76機、10月に56機と大幅に落ち込みました。

燃料が底をつくのとは対照的に、飛行機の生産数は1944年に頂点をむかえ、1943年の24,800機から40,600機へと大幅に増加しました。得に戦闘機は25,300機と過半数の62%を占め、7月と9月には月産4,300機を越えていました。大半はBf 109、Fw 190の昼間戦闘機でしたが夜間戦闘機の月産生産数も7月に446機、9月には519機に増加しました。
しかしアメリカ・イギリスの戦術爆撃によりドイツ国内の輸送網は麻痺し、新品の機材が工場や操車場に置かれたまま空襲を受けて破壊されたり、飛行場に並べられるままになりながらも、夜間戦闘部隊は着実に機材の数を増やしていき、1944年7月27日の849機(うち稼働数は614機)、9月17日の959機(うち稼働792機)と逐次、増加していました。
さらに第100夜間航空団NJG 100)が本土方面の防空部隊として加わったため、1944年11月の装備数は一気に増え、11月17日の時点で1,170機以上(うち稼働905機)を数えました。機数の増加はさらに進み、12月には予定配備数の1,319機を上回る1,355機(うち稼働982機)と、夜間航空団の配備数は最大に達しました。
しかし、数値上の機数ばかりそろっても、実際に出撃できるのは1割前後でした。

こうした夜間戦闘団の燃料とパイロットの不足によりイギリス空軍爆撃機兵団の損害は目に見えて減少しました。1944年7月20日に第1、第3、第8集団が参加したホンベルクにある合成石油工場への爆撃では147機のアブロ ランカスターと11機のモスキートが出撃しました。これを夜間戦闘機が迎え撃ち総出撃数の13.6%にあたる20機を撃墜しました。
また10月14日から15日にかけて実施されたハリケーン作戦で1,005機(ランカスター498機、ハンドレページ ハリファックス468機、モスキート39機)が二波に別れてデュイスブルクを襲いました。イギリス空軍は7機のランカスターと2機のハリファックスを引き替えに、計941機がデュイスブルクに4,040トンの高性能爆弾と500トンの焼夷弾を投下しました。
ハリケーン作戦は昼夜連続二回に別けて行われ、未帰還機は合わせて1%の21機にとどまりました。
そうして10月26日(25日説もあり)のホンベルク近くのミードック爆撃では、第6、第8集団のハリファックス199機、ランカスター32機、モスキート12機で編制された243機が出撃し、ついに1機の損失も出しませんでした。

本土方面を含む西部戦線のこうした苦戦以上に、東部戦線のドイツ軍はソ連軍に押され敗走を重ねていました。1944年8月にはルーマニアがドイツから離脱、9月にはソ連領土から押し出されて、1944年末にはポーランドとチェコスロバキアのあたりで攻防が行われるまでに後退していました。
「東部戦線」とはドイツの東側で繰り広げられる戦闘区域を示す言葉に変わっていました。

ソ連領土内で活動していた第200夜間航空団NJG 200)は、すでに1944年7月に解隊、第100夜間航空団第II飛行隊(II./NJG 100)と呼称を変更していました。その第100夜間航空団NJG 100)も、「鉄道夜間戦闘」の異名をとってソ連上空を飛び回っていた面影はなく、1944年9月には東プロシアに退きました。その後も後退は続き、防空組織の本国航空艦隊の指揮下に編入されました。つまり1944年秋には、小規模なノルウェー夜間戦闘小隊を除いて、全夜間戦闘部隊が本土防空を任務とするようになりました。

参考資料

カテゴリ:

メタデータ:

投稿者:IMAGEDRIVE
公開日時:2010年11月13日 22:37 更新日時:2010年11月14日 21:43
URL:http://www.nachtjagd.org/history/1944/1944_10.shtml

関連記事一覧

  1. 王族エース ヴィトゲンシュタインの死
  2. 1944年のベルリン爆撃
  3. ベルリン爆撃の終焉
  4. 血の三月(イギリス空軍最悪の日)
  5. ユンカースの台頭
  6. シェーネルトの独立単座夜間戦闘機部隊
  7. カムフーバー・ラインの崩壊
  8. ヴェルターとRAF第100集団のモスキート
  9. 追い込まれるレーダー技術
  10. 増加する機材と欠乏する燃料
  11. トップエース ヘルムート・レントの死
  12. 1944年の総決算