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明るい夜間戦闘

第二次世界大戦のヨーロッパ上空で繰り広げられたドイツとイギリス、アメリカの知られざる夜間戦闘の歴史や航空機、技術の紹介しています。

トップエース ヘルムート・レントの死

第3夜間航空団司令ヘルムート・レント大佐1918年6月13日ドイツ空軍は1944年7月、ついに前人未踏の夜間100機撃墜を達成しました。昼間であれば100機以上撃墜のエースは100人を超えていましたが、夜間撃墜のエースはレントハインツ=ウォルフガング・シュナウファー少佐1922年2月16日ドイツ空軍の2人だけでした。

ヘルムート・レントの葬儀そのレント大佐の乗るJu 88Gが1944年10月5日、パーダーボルンに昼間着陸のさいに、片方のエンジンの故障により安定を失って、張られたワイヤーに引っかかり、機体は大破しました。レントはこの事故で即死こそしませんでしたが重傷を負い、二日後に絶命しました。
たびかさなる危険な夜間離着陸をこなしてきた彼が、日中の事故で死亡しようとは、誰もが想像し得ようもないことでした。102機を夜間撃墜し、夜間航空団にその名を轟かせたレントの死は、夜間戦闘団のみならずドイツ全軍にとっても取り返しのつかない損失でした。

またデハビランド モスキートに撃墜される搭乗員も数を増していきました。第100(特別任務)集団は1944年末から、爆撃機編隊の守りをさらに堅固にするために電波妨害兵器の強化を図るとともに、モスキート夜戦部隊に二つの護衛戦術をとりました。
一つは都市上空でのヴィルデ・ザウに対抗するもので、目標上空のまわりに何機かのモスキートを長円形に旋回させ、そのあいだを通る爆撃機群に襲いかかる夜間戦闘機を待ち伏せて襲うという方式でした。モスキートの旋回待機空域を、目標都市を回転中心とする時計の短針になぞらえて「クロック・パトロール」と呼ばれました。
この戦術が可能になったのは、左右各75°、上下各30°の広範囲な索敵が可能なうえ、精度の高いマイクロ波レーダーAI 15型(アメリカ製。アメリカ軍呼称はAN/APS-4)を使えたからでした。
二つめはツァーメ・ザウへの対抗策として、重爆撃機隊の左右をモスキートが平行に飛んで左右を固めるとともに、編隊の直上方を蛇行する警戒飛行でした。
これはモスキートの大航続力と、編隊内の妨害兵器の影響を受けないマイクロ波レーダーを装備してたから可能だった戦法で、ドイツの空地両方のレーダーがいまだにすべてメートル波という、最大の弱点を突いたものでした。

この二つの新しい護衛方式により、返り討ちにあうドイツ夜間戦闘機搭乗員が増加しました。
たとえば1944年12月に、第1夜間航空団NJG 1)の二人の有力なエースが戦死しました。まず12月6日から7日の夜に第1夜間航空団第12中隊(12./NJG 1)長のハンス=ハインツ・アウゲンシュタイン大尉1921年7月11日ドイツ空軍(撃墜46機)が、ついで12月24日から25日にかけての夜には第1夜間航空団第9中隊(9./NJG 1)長のハインツ・シュトリューニング大尉1912年1月13日ドイツ空軍(撃墜56機)が未帰還になりました。二人はともに自機の性能を上まわるモスキートによって撃墜されたのでした。

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メタデータ:

投稿者:IMAGEDRIVE
公開日時:2010年11月14日 22:28 更新日時:2010年11月21日 01:11
URL:http://www.nachtjagd.org/history/1944/1944_11.shtml

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