1. メニューへ移動
  2. 本文へ移動

明るい夜間戦闘

第二次世界大戦のヨーロッパ上空で繰り広げられたドイツとイギリス、アメリカの知られざる夜間戦闘の歴史や航空機、技術の紹介しています。

メッサーシュミット Bf 110

1944年4月29日にスイスのデューベンドルフ飛行場に不時着したヴィルヘルム・ヨーネン中尉のBf 110G-4d/R3(C9+EN)メッサーシュミット Bf 110(Me 110とも呼ばれる)はドイツ空軍が運用した双発の重戦闘機で、駆逐機(ツェアシュテーラー)と呼ばれました。
当初、Bf 110は爆撃機に随伴して敵地深く進入し、敵戦力を叩くという「戦略戦闘機」として活躍を期待されました。

Bf 110は、1930年代なかばに欧米各国で流行した万能戦闘機(戦略戦闘機など呼称は様々)の一つでした。ドイツ空軍では「駆逐(戦闘)機」と呼ばれ単発戦闘機並の速力に重武装を備え、爆撃機の長距離進行に随伴できる、多目的・多用途が売り物でした。そしてこの駆逐機で編成されたのが、ドイツ空軍独自の駆逐航空団ZG)でした。

しかしバトル・オブ・ブリテンでは爆撃機の直衛や制空任務など当初想定されていたのとは異なる任務に就かされ、当機の強みである高速性を行かせず損害が増えると、戦闘機でありながら単発戦闘機の護衛を必要とし、昼間戦闘機としての道は途絶えてしまいました。

しかし、重武装・多座・長い航続距離を買われ夜間戦闘に従事すると、敗戦のその日までドイツの夜の空を守った夜間戦闘機として活躍するのでした。

誕生

1930年代、世界各国の空軍で一種の熱病になった「戦略戦闘機」という存在は、航空技術が飛躍的に発展した技術開発の過程で産み出されたものでした。
Bf 110もそうした各国が熱を入れた「戦略戦闘機」として誕生しました。ただ同時期に開発された「戦略戦闘機」に比べ頭一つ出た存在になり得たのは、航空機のなんたるかを理解していた設計者の慧眼だったと言えます。

「戦略戦闘機」とは敵の戦略目標攻撃を行うための長距離航続力と強力な火力、単発戦闘機を圧倒する運動性能などを備えた夢のような戦闘機で、1934年にはポーランド空軍の戦略戦闘機設計競作でPZL.P38が選ばれるなどしました。
同じ1934年にフランス、ついで秋にはドイツでも"戦略重戦闘機開発仕様書"を公布し、多目的な戦闘機である爆撃駆逐機(Kampf Zerstörer)の開発を各社に要請しました。
この開発にはヘルマン・ゲーリング空軍総司令官が強力に後押し、仕様は以下のように決定しました。

  • 自軍爆撃機に追随できる高い航続力
  • 敵戦闘機に対抗できる運動性能
  • 敵爆撃機への攻撃
  • 爆弾による攻撃

そして以上の要求を満たすための設計仕様は、エンジンにDB600またはJumo210による双発、3座の全金属製機体、大口径火器と爆弾倉を持つものとされました。
開発要請はAGO社、ドルニエ航空機製造フォッケウルフ航空機製造株式会社ハインケル航空機製造会社ヘンシェル航空機製作所ゴータ車両製造会社DFW社(バイエリッシュ航空機会社)に出され、最終的にフォッケウルフ、ヘンシェル、BFWの3社で競作が行われることになりました。

Hs 124この競作でヘンシェル社は要求仕様に忠実に設計されたHs 124を提出しました。
Hs 124は機首上部にモーゼル社製のターレットを装備しさらに胴体内に爆弾倉を備えていました。

Fw 57フォッケウルフ社も同様に要求仕様に従ったFw 57を制作しました。
Fw 57はフランスのポテ63に似て、機首の透明ガラス部にMG FF 20mm 機関砲、コクピット後方にモーゼル社製の電動ターレットと強力な攻撃力を持っていました。

Bf 110 V1一方、BFW社が提出したBf 110は、仕様をまったく無視して戦闘機としての飛行性能優先の機体として完成させました。
Hs 124とFw 57はすぐに原型機の追加発注を受けましたが、仕様を無視したBf 110はなかなか発注を受けることができませんでした。

結果的にエルンスト・ウーデットの後押しがあって、ようやく開発が認められるようになりましたが、仕様にそった為になかなか要求性能に達することができなかったHs 124とFw 57に比べ、仕様を無視したBf 110が後に正式採用になるとは皮肉な結果でした。

Bf 110は速度性能優先で設計され、コンパクトにまとめられた機体に当時最新鋭の技術を盛り込んで作られたDB600Aを2基を装備していました。
そのほか主翼前縁に設けられたハンドレページ式自動スラットや、直線テーパーによって構成された主翼、上部に切れ込みを持つ方向舵など同時期に開発されたBf 109と多くを技術を共有していました。
そうして1936年5月12日、アウグスブルク・ハウンシュテッテン飛行場で試作型のBf 110V1がルドルフ・オピッツの操縦で初飛行に成功しました。

Bf 109V1BFWの目論見通り、速度性能優先で設計されたBf 110V1は初飛行直後に行われた飛行試験で、次期主力戦闘機として開発中であったBf 109V1の最大速度480km/hを圧倒する510km/hを記録しました。

ただまったく問題がなかったわけではなく、特にエンジンの信頼性不足や離着陸時の主翼の振動など問題を残しました。その結果、試作2号機のBf 110V2の完成が1936年10月24日、試作3号機のBf 110V3の完成は12月24日にずれ込みました。
こうして試作2号機のBf 110V2は1937年1月14日、レヒリンの空軍テストセンターに送られ、空軍省のテストパイロットの手によって評価試験を受けました。テスト結果で運動性能の不足が指摘されたものの、部隊配備が始まったばかりのBf 109を上回る最大速度のインパクトは大きく、先行量産型のBf 110A-0 4機が最初の発注を受けることになりました。

先行量産型のBf 110A-0 4機は1937年8月から1938年3月にかけて生産されましたが、搭載を予定していたDB600A(986馬力)が不調のため、Bf 110A-0はJumo210B(610馬力)を搭載していました。
機首にMG 17 7.92mm 機関銃4門と後席にMG 15 7.92mm 機関銃を装備していたので、エンジン出力の低下と相まって、最大速度は430km/hと大幅に低下してしまいました。
しかし新型で出力も向上したDB601の導入の目処がたっていたため、1938年春からの本格的な生産型の導入を目指して91機の追加発注を受けました。
こうしてBf 110は大きな期待を背負って駆逐機として歩み始めるのでした。

実戦

初戦

Bf 110Cはこの机上の空論ともいえる高性能を要求された最初の本格的な生産型で、ポーランド侵攻(1939年9月1日)やヴェーザー演習作戦(1940年4月9日)で、爆撃機援護の任務のもとPZL P11やグロスター グラディエーターといった二流の単発戦闘機を圧倒して、その存在価値を見せつけました。

バトル・オブ・ブリテン

バトル・オブ・ブリテン(1940年7月10日から10月31日)でBf 110は単発戦闘機に対して、昼間戦闘機として致命的な弱点が露見しました。
Bf 110は双発機でとしては小型でしたが高翼面加重で、イギリス空軍のホーカー ハリケーンスーパーマリン スピットファイアより運動性能は劣り容易に後方を取られてしまいました。
最高速度こそハリケーンより優れていましたが加速性能が悪く、爆撃機の護衛で行動が制限されると優速を行かせずさらに被害を増大させました。

例えば第76駆逐航空団第III飛行隊(III./ZG 76)に所属していたヘルマン・ゲーリングの甥であるハンス-ヨハヒム・ゲーリングが搭乗していたBf 110は、1940年7月11日に第78飛行隊(No. 78 Squadron)所属のハリケーンに撃墜され、ポートランド港に墜落しました。

また1940年8月15日には一個飛行隊に値する30機が撃墜され、Bf 110にとって最悪の日になり、さらに続く16日から17日の間に23機が撃墜され、18日以降はBf 110の補充が損失に追いつかず出動数が大幅に減少しました。

一方で8月末、第26駆逐航空団ZG 26)のBf 110は、3機損失・5機損傷の引き替えに13機撃墜の希な大戦果を上げましたが、9月4日と27日にはそれぞれ15機を失う大損失でした。

バトル・オブ・ブリテン開始時のBf 110の参加機数は278機。これが8月・9月で200機以上を損失し、損耗の激しさから解散する部隊さえも出てくるしまつでした。

夜間戦闘

開戦から夜間航空団NJG)ができるまで、夜間戦闘機の主役を務めたのはBf 109C型とD型でした。しかしBf 109は翼面荷重が高く、車輪の間隔が狭いので昼間でも難しい離着陸を夜間に行うのがまず困難で、夜間戦闘機としての運用には不向きでした。
それはともかくBf 110はBf 109に比べてずっと夜間戦闘機に適した機材でした。
まず複座であったこと。これは昼間なら地表を見ながらの地文航法が可能でしたが、夜間だと目的地に飛ぶにも推測航法、天測航法、無線航法などが必要になり、これらを一人で行うのは搭乗員にとって非常に負担が大きいものでした。
また目視可能な昼間なら、だいたいの空域に達すれば敵機を発見できますが、機上搭載レーダーもないこの時期は夜間では、よほど近づかないと敵機を捕捉するのも困難でした。
運良くサーチライトが捕捉した敵機を見つけても捕捉されているのは短時間で、しかもほんの一部の敵機だけでした。エンジンの排気炎や星明かりで敵機を追うにも、一歩間違えば敵機や味方機と衝突の恐れもありました。ただ飛ぶのでさえ神経を使う夜間飛行で、戦闘に集中するには航法や通信を専門に行う搭乗者は必要不可欠の存在でした。

もう一つの利点は双発が故に機首や胴体に武装が搭載でき、進行方向の軸線に火力を集中できることでした。
夜間戦闘機の主目標である爆撃機を撃墜するには、大量の火力を叩き込む必要がありました。会敵する機会も僅かな夜間で、せっかく捕捉した敵機を確実に落とすには短時間でいかに火力を集中できるかによりました。
単発戦闘機は機首にエンジンがあり、またプロペラとの同調の問題もあるので大口径火器や異なる口径の武装を搭載するのは難しいのですが、機首にエンジンがなく搭載能力の大きいBf 110は単発戦闘機の抱える問題がありませんでした。

さらに運動性能と速度も鈍重な爆撃機を相手にする夜間戦闘なら、飛び抜けて高い性能を要求されることもなく、相手よりも一回り高性能であれば十分でした。
Bf 110は爆撃機に付随して長距離進行する目的で作られた航空機なのでBf 109に比べ航続力の面でも有利で、長時間の上空待機と追撃を行う任務に適していました。

こうした本来の目的のために要求された性能は昼間に発揮することはできませんでしたが、夜間では一転してあらゆる面で有利に働きました。

このように1930年なかごろに流行した双発多座戦闘機の夜間戦闘機への転換は、ドイツに限らずフランスのポテ630や631、イギリスのブリストル ボーファイター、日本海軍の中島 月光や陸軍の川崎 屠龍が同じ道をたどっています。

1941年に入ると機上搭載レーダーが開発され、1942年には夜間航空団に普及し始めました。機上搭載レーダーは空間的に余裕のある機首に搭載され、乗員は二人からレーダー手として三人目の搭乗員が敵機の捜索を担当しました。外見上の大きな特徴となっている複数の八木アンテナは空気抵抗が大きく、速度を大幅に低下させました。レーダー自体の性能も、連合軍の機上レーダーにくらべて劣っており、夜間戦闘機同士の戦闘となれば、Bf 110は常に劣勢でした。

そのため以降の夜間戦闘機は、より大型のレーダーが搭載しても性能の低下が少ないJu 88のような大型機に移っていきました。

捕足

バトル・オブ・ブリテンを例にとり落第機としての評価を受けるBf 110ですが、他国で同様に開発された双発重戦闘機で、単発戦闘機の性能を凌ぐ機体は出てきませんでした。
そもそも当機の用兵上の目的は、敵爆撃機に対する攻撃や長距離侵入であり、単発戦闘機との交戦は考えられていませんでした。まして味方爆撃機の護衛など行えば、本来も持ち味である高速性などは失われ、襲ってくる敵戦闘機との戦闘は避けられなくなります。
両翼にエンジンを付けた機体に、単発戦闘機並の運動性能を期待するのが間違いで、本気でそう考えているならBf 110は防御機銃など装備していなかったでしょう。
よって戦後にBf 110に与えられた低い評価は見当違いであり、本来の用途である高速での長距離侵入(イギリス沿岸部への超低空進入による爆撃など)や敵爆撃機の撃墜(夜間戦闘機)では、十分に活躍しました。

参考資料

カテゴリ:

メタデータ:

投稿者:IMAGEDRIVE
公開日時:2010年3月 9日 00:06 更新日時:2010年10月 1日 23:43
URL:http://www.nachtjagd.org/technology/aircraft/luftwaffe/bf110.shtml

関連記事一覧

  1. アラド Ar 68
  2. メッサーシュミット Bf 110
  3. フォッケ・ウルフ Fw 189